ヨコハマポートサイドの都市デザイン

ヨコハマポートサイド 最初の提案

1987年頃から、私が最初に本格的に取り組んだ都市デザインが「ヨコハマポートサイド地区」です。私が留学していたイエール大学に臨時講師として来た都市デザイナー ジョナサンバーネット(Jonathan Barnett)の「建築をデザインしないで都市をデザインする」という話に感動したことが、この原点にあります。
ニューヨークの都市デザインのゾーニングの歴史の紹介に始まり、当時建設中だった Battery Park City の都市デザインの具体について知りました。それは「都市デザインガイドライン」による、建築計画の誘導手法です。

ニューヨーク都市計画局の立役者の Richard Weinstein がイエール大の先輩だということを知り、迷い無く彼が働いた建築家 Edward Larrabee Barnes の事務所にポートフォリオを持って就職申し込みをしたところ、採用していただき、2年間の充実した体験をもつことができました。(この体験は後日アップします)
1982年頃のニューヨークの Urban Design Center は、都市計画家、建築家や市民が集まり、さまざまな立場の人たちが街の将来について公開の場で議論するという場になっていました。私は「これが本当の都市デザインだ」という確信をもち、素晴らしい時期にニューヨークを体験できたのはとてもラッキーでした。

このような都市デザインを日本で実現したいという希望をもって帰国し、留学前にお願いしていた建築事務所への就職は止め、自分の事務所を開きました。最初は全く仕事がありませんでしたが、あるデベロッパーの孫請けで、ヨコハマポートサイド地区のひとつの街区の基本提案に関わったことが転機となりました。私は依頼された街区の設計だけでなく、頼まれてもいないのに、ポートサイド地区全体の都市デザインの流れを提案しました。


そのプレゼの後、若き高橋和也係長に、「堀内さん、目の上の鱗が落ちました」と、お声をかけてくださいました。そして、翌年には横浜市と契約を結んでいました。私が帰国後最初に手がけた「日比谷シャンテ広場」を気に入っていただいたことが大きかったと思いますが、彼としては思い切った判断をしたものだと思います。
当時の横浜の都市デザイン室は、まだ創設当初の勢いがあり、市の各局の上に立ち連携をとるようなポジションであり、とても良い仕事をすることができました。